千手寺の業平腰掛石
千手寺の業平腰掛石
都で一番モテモテのイケメン貴公子、今なりひら、と言葉まで残しているほどの男前。在原業平(ありはらのなりひら)、六歌仙の歌人であり、生涯のうちに3,733人の女性と浮名を流したといわれるプレイボーイであります。
その業平、神並の里の役行者が開いたという「千手寺」の「光堂」へやってまいりました。
光堂に泊まっているという、年のころなら30ばかりの雅やびた貴人を訪ねてきたのです。
その貴人とは、第55代文徳天皇の第一皇子「惟喬(これたか)親王」でありました。
不思議なことに伴の者はだれもおらず、獣の革を羽織った山の者と思わしき男たちが、親王を守るように里のところどころに潜んでいました。
業平、門前の石に腰を掛け、出てきた山の者に声をかけます。
「なぁ、殿下はいかがおすごしや?お前さんらにもえらい世話掛けてすまんなぁ」
「あっ、業平はん。殿下はなにごともなくおすごしですヮ、日がな一日ろくろ使うて木ィ削ってお椀とかを拵えたりしてはりますわ。」
「さよか、殿下は細工モンするのん好きやからな。ほたらお目通りさせてもらうワ。」
業平、惟喬親王とは母方の親戚で、親王とは幼き頃よりの唯一無二の親友でした。
先代の文徳天皇の跡継ぎは第一皇子の惟喬親王であるはずでした、が、太政大臣・藤原良房の反対で第四皇子が第56代清和天皇となったのです。
というのも惟喬親王の母が紀州の地方豪族・紀名虎の出身であったのに対し、第四皇子の母は今をときめく藤原良房の娘・高子であったからです。
皇位を争った惟喬親王の身に危険がおよぶのを案じた紀名虎は、紀州より山の者たちを呼び、惟喬親王を都より落としたのです。
惟喬親王の行方を探していた藤原良房は、密偵から報告を受けると不快げな顔をして藤原氏の氏神・枚岡神社へと人を走らせ、武者を動員して「光堂」へと向かわせたのです。
「よいか、業平もろとも親王のお命貰い申し上げろ!」
じつは、業平は若いころ高子と相思相愛の仲であり、第四皇子との縁談の話が出ると、ふたりで駆落ちをしたのです。
血相を変えた良房たちは高子を連れ戻し、業平を都から追放しました、それ以来良房にとって業平は名前を聞くのも疎ましい相手となったのです。
この話はアレンジされ、業平がモデルだという「伊勢物語」第6段に伝えられています。
「業平はん、えらいこっちゃ! 武者どもが攻め込んで来ょったで。
ともかく、ここは山のモンで防ぐよって、業平はんは早よ殿下を落としとくなはれ。」
惟喬親王、愛用のろくろ一つを下げただけで取る物もとりあえず、業平につきそわれ逃げ落ちます、そこへ入れ違いのように武者どもがお堂に火矢を射たててきました。
山の者も半弓で射返しますが、多勢に無勢、とうとう光堂の屋根に火が付き、瞬く間に燃え広がりました。
すると、なんと不思議な事!
燃え盛る光堂のなかから、ご本尊の弘法大師の刻まれたという「千手観音像」が浮かび上がり、寄せ手と守り手それぞれが見守る中、北西の方へと飛び去って行ったのでした。
武者たちは、あまりの変異に仏罰をおそれ、早々と逃げ帰りました。
業平は惟喬親王とともに、「深野池」の岸まで逃げて来ると、親王を慰めようと、ふところから「一節切の笛」を取り出し嫋嫋と吹き出しました。
池の面を笛の調べがわたってゆくと、何ということか池の水面が急に輝きだし、底には飛び去った「千手観音像」が沈んでいたのです。
事の顛末を聞き仏罰をおそれて夜も眠れずにいた藤原良房は、この話を聞くと業平を呼び出し、業平に手をついて今までの所業を詫び頭を下げ、「千手観音像」が見つかったのはひとえに仏のお導き、是非とも寺を再興させていただきたいと申しでたのでありました。
業平によって「千手寺」は再建され、惟喬親王は山の者たちの案内で洛北の「雲ケ畑」に落ち延び、そこで生涯を送りました。
親王は、そこで山の者たちにろくろで木を削り出す技術をおしえ、その技で山の者たちは日本中の山々をわたり椀や膳を拵えて生活するようになり、「木地師」の祖と崇められ、今なお神さまとして祀られています。
業平の没後、「一節切の笛」は高安の玉祖神社におさめられ、千手寺には「業平と背中合わせのぬくさかな」という句碑が立てられています。
業平が腰かけて話した石は、現在でも「業平の腰掛石」として残されています。
日付 | 2019-06-15 |
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