枚岡中央公園の徳川家康本陣跡
枚岡中央公園の徳川家康本陣跡
河内の里の綿畑、生駒の斜面にいっぱいの花が咲くのも、もう少し後か、綿畑を眺めている一人の男がいました。その男、四郎衛門は悩んでいました。
中村四郎衛門、ここ豊浦の里の大百姓、名主もつとめる長者です。
長かった戦国の世も終わろうとして落ち着いた世過ぎが出来るかと思いきや、豊臣家の大阪城に数多くの浪人たちが集まってきて、昨冬より徳川方との戦争がはじまったのであります。
つい先ほど、その徳川方から伝令がやって来て、四郎衛門の屋敷を、家康の本陣として使用する旨伝えてきたのです。
天下人の機嫌を損じては大変なことになります、四郎衛門は献上品を何にしようか頭を痛めていたのでありました。
そして明くる日。
家康は、道明寺で後藤又兵衛の軍、若江で木村重成の軍を破ったのを聞くや、安心して、枚岡に本陣を進めます。
そして夕刻、四郎衛門の屋敷に入りました。
「大御所さま、このたびは拙宅を本陣へとお申し付け、誠に有り難きことにて、子々孫々までの誉れでございます。
これは誠に粗末なものでございますが、大御所さまに献上いたしとうございます。」
家康は笑みを浮かべ、「ほう、木綿の反物じゃな。」
「左様でございます、おりしも端午の節句でございます、それにあやかりこの布を「菖蒲木綿」と名付けましてございます。」
「ほう「菖蒲木綿」か、なるほどな、されば「勝布木綿」と書くが良い。
勝布(しょうぶ)木綿、まさに新しい日本の門出を祝うようであることよのう・・・」
そのまた翌日、真田幸村の猛攻撃もむなしく、大阪城は炎上し、ここに旧時代の覇者・豊臣家は滅びました。
家康は、自軍に枚岡の民への乱暴狼藉を禁じ、近隣の村々が焼かれたのに、枚岡のみ無事ですみました。
枚岡はこののち幕府の直轄領となり、中村四郎衛門は、徳川家から庄屋として枚岡の差配をまかされ、村人のために尽くし人からは「中村代官」と呼ばれるようになりました。
「勝布木綿」は、新しい河内の名産として「勝布木綿(かちぬのもめん)」とよばれ、河内木綿の名を全国に知らしめるようになりました。
史跡 中村四郎右衛門住跡
中村代官屋敷跡
日付 | 2019-06-08 |
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