石切神社・上之宮とナガスネヒコ

石切神社・上之宮とナガスネヒコ

およそ2,600数十年のむかし、河内平野は大きな入江で、人の住めるのは生駒の山麓だけで、生駒山を中心としたその里を「鳥見の里(とみのさと)」と呼んでいました。

現在の「富雄」や「登美ヶ丘」「鳥見町」などの地名は「鳥見」から来ていて、現在の生駒市北部から桜井市西部にまでひろがっていたようです。

その鳥見の里に、天の岩船にのってニギハヤヒノミコトがやってきました。

鳥見の里のの首長・ナガスネヒコは、驚き警戒しますが、ニギハヤヒが天孫族「日の御子」であるのを知ると、妹・ミカシキヤヒメの勧めもあって、彼に仕えることに決めました。

ニギハヤヒのもたらした、鉄製の道具や武器、また稲つくりや織物の技術は里の人々を驚かせ、一族はニギハヤヒの指導のもと、水田をひらき稲作がはじまったのです。
 
ニギハヤヒは、ミカシキヤヒメと結ばれ、長男・ウマシマデノミコト(可美真手命)が誕生しました。




そうしたある日、突然、海の向こうから神武天皇がやって来て、鳥見の里に攻め込んできました。

一旦は孔舎衛坂(くさえさか=今の善根寺)にて神武軍を追い返したものの、神武が自分と同じ天孫族「日の御子」であるのを知ったニギハヤヒ(一説にはウマシマデ)は神武に誼を通じて、ナガスネヒコに神武軍に降るよう説得します。

しかし、ナガスネヒコは先住民の誇りゆえか頑として降伏を受け入れず、遂にニギハヤヒ(またはウマシマデ)に斬られたといいます。

石切神社はウマシマデの末裔・物部氏の氏神であり、祖先であるニギハヤヒを祀ってあるといいますが、実はひょっとして無念に死んだナガスネヒコの鎮魂の社であるのかも知れません。









日付2019-06-06
カテゴリー観光情報 歴史・文化 
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