髪切の里の二匹の鬼

髪切の里の二匹の鬼


むかしむかし生駒の山ン中には、前鬼と後鬼と言う夫婦の鬼が住んでいたそうな。

夫婦の鬼には、5人の子供がおって、二匹の鬼は子らに人間の子供を捕っては食べさせていたので、村人にたいへん恐れられていました。


と、ある日。

ひとりの行者が、村にやって来てこの話を聞き、村人がとめるのも聞き入れず、錫杖(しゃくじょう)を片手に一本歯の下駄をはいて笈(おい)を背たらい、鬼が住まうと言う谷へ向かいました。

鬼の5人の子供のうち、末っ子の鬼彦は、まだ小さな幼な児でした。鬼の夫婦は、目の中に入れても痛くないほどかわいがっていました。

鬼彦は、その日も元気いっぱい遊んでいました。

遠くに行ってはいけないよと言われたのも忘れ、生駒の山の谷から谷へ、あっちきょろきょろ、こっちうろうろ、とうとう迷子になってしまいました。

さて、行者は、鬼の隠れ家を見つけ出し、呪文を唱え出します。

二匹の鬼は、突然現れた行者に面食らうとともに、先ほどから鬼彦の姿が見えないのは、この行者の仕業だと思い襲い掛かります。

行者は、体術の達人でもあるのか鬼たちの攻撃をやすやすとかわし、手取りにして高手小手に縛り上げてしまいました。

「やい!卑怯者!! どんなえらい行者か知らんけど、何の罪もない子どもを隠すとは、どうゆう料簡じゃ!!」

「何! わしは、そのようなことは知らぬぞ!」

「嘘つきさらせ!ボケッ!」と口汚く罵りますが、だんだんと不安になってきたのか
「なあ、わいらが悪うございました。せやけど鬼彦には何の罪もおまへんねん。どうか帰してやっとくなはれ・・・・・」

鬼たちのあまりの嘆きに心を動かされた行者は、また違う呪文を唱え出しました。

そうすると森の奥からひょこっと鬼彦が帰ってきたのです。

「鬼彦!」

「鬼彦や、怪我はないか、無事やったか・・・・」

鬼の夫婦は縄を解かれ、鬼彦をぎゅっと抱き、おいおい泣きだしました。

「なあ、鬼たちや、お前たちにしても子はかわいいモノ、村の人たちが今までどれほどお前たちのために悲しい目におうたか考えてみい、改心して仏に仕える気はないかのう。」

鬼たちは、泣き止むと「へエ、仰せのとおり、あなた様の弟子にしてもらえまへんやろか。」

行者は、孔雀明王の秘法で祈祷をし、鬼の一家を人間に変え、夫婦の頭髪を剃りこぼち義覚、義賢と名をさずけました。

行者は、すべて終わると何事も無かったのごとく、すたすた歩きだしました。

そばで見ていた鬼彦は、「行者様、笈を忘れているよ。」

「なに、これからは義賢、義覚の二人が背負ってくれるのでその必要はないぞ。」と言って、次の山へと去ってゆきました。

生駒の山には、ホトトギスの美しい鳴き声がこだましていました。


この鬼の髪を切ったところは「髪切(こうぎり)」と呼ばれ、鬼を改心させた行者こそ、「役小角(えんのおずの)」でありました。

生駒山は、古くから修験の山として知られてきました。

日本では古くより山は神の住まうところ、または大自然そのものが神と考えられてきました。

修験道とは、その山岳信仰と外来の密教や陰陽道などが習合して成立したもので、その行者は山に伏し過酷な修行をおさめることから山伏と呼ばれました。

それら山伏・修験者たちの開祖こそ、この役小角であると伝えられています。

小角は64歳まで、二匹の鬼を従え、三十三度の峰入りを行いました。

大峰山を中心として、葛城山・金剛山・笠置山・愛宕山・伊吹山そして出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)、筑波山・二荒山、白山・立山・伯耆大山(ほうきだいせん)・石鎚山・彦山・阿蘇・霧島の諸霊山を開き、激しい修行で修験道を確立してゆきました。

その力のみなもとは、生駒山の霊力にあったのやも知れませんね。







日付2019-06-06
カテゴリー観光情報 歴史・文化 
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